Facebookをやめることにしました。
SNSによって想起される「怒りへの依存」がある、
と気づいたからです。
先月、選挙に関する投稿で、
Facebookの「友達」がフェイクニュースを拡散していました。
第三者が作成した偽の画像に、
自分の解説を付けていました。
普段そういった投稿はスルーしますが、
フェイクで叩かれていた内容に個人的に思うところがあり、
偽の画像の元ネタを示したうえで、
これは誤解ではないかとコメントしました。
論破が目的ではないので、
コメントが攻撃的に映らないよう気をつけました。
その結果。
数時間後にその投稿自体が削除されました。
数日後にその人からブロックされました。
本人からの返信などは一切ありませんでした。
ブロックされたことについては、
よく理解できますし、甘んじて受け入れました。
どのような内容であれ、
自分の投稿に不本意なコメントがつくことは、
不愉快だし、不安でしょう。
その人を責める気持ちもないし、
Facebookをやめる理由も
ブロックされたからではありません。
きっかけはその後に起こりました。
―――かなり以前から、
わたしはSNS、特にFacebookがエコーチェンバー
(=フィードが自分と同じ考えの人の意見ばかりになって
似た意見が反響し合う状態)
であることに恐怖を感じていました。
自分と似たような考えの「友達」に囲まれて、
一緒に同じ意見にいいね!をし合って、
違う意見を一緒に批判するのは非常に気持がいいものです。
これは、「自分の考えは正しい」と思いたいという
私たちの弱さを利用したビジネスで、
かけ金は自分の「時間」と「人間性」です。
人はそんなに強くないので、
そのようなSNSで徐々に独善的になり、
他者に不寛容、攻撃的になっていきます。
そうやってSNS依存を高めて、
長時間に釘付けにして広告を流したいわけです。
そうならないよう、
Facebookの「フィード」には、
多様で偏らない投稿が表示される状態が好ましい、
と思っていました。
Facebookの「友達」で、
じぶんと対極的な意見を発信しているひとは
アルゴリズムからも排除されやすく貴重な存在なので、
そういう投稿は積極的に見るようにしていました。
ブロックされた「友達」の投稿は、
私のフィードから消えました。
心がざわつく投稿が消えたフィードを眺めて、
「なんだか物足りないなあ」と感じたとき、
自分が気に入らない投稿を読んで湧き上がる「怒り」に
依存していることに気づきました。
自分が正しくないと感じる投稿やニュースによって
呼び起こされる「怒り」や「敵意」を摂取して、
義憤、怒りや正義に酔わされている。
見ると気分が悪くなるとわかっているのに見てしまったり、
意図的な「炎上」に踊らされる心理にも似ています。
これもまた、私たちの弱さです。
結局、フィードがじぶんと同じような意見で染まっても、
じぶんと異なる意見が上がってきても、
やっぱりFacebookの誘惑には勝てないのだなあ、
と理解できました。
誘惑には勝てず、遠ざかることができるだけ。
じゃあ、もうやめよう。
SNSを通したつながりや思いがけない出会いなども
なくなってしまうのはざんねんですが、
今の選択が私の未来を決めます。
Facebookがみちびく未来の自分は望まないのでお別れします。
ありがとう、さようなら。
あとがき
Facebookのアカウントを削除すると、
私の場合はMessengerもInstagramも
すべて消えてしまうようです。
ガーン。
インスタでお気に入りレシピをたくさん保存してあったのに。笑。
インスタは料理や動物動画で特にやめる必要も感じないので、
アカウントを削除したあとに
インスタだけ再登録しようと思います。
Messengerは諦めますが、
「FacebookだけでLINEしていない知人」
とは連絡が取れなくなりますね…