「主の祈り」わたしの祈りかた その2

主の祈りシリーズの続きです。

その1はこちらです。

「主の祈り」わたしの祈りかた その1
まいにち朝晩、起きてすぐと寝る前に祈ってます。 でも最初はなにをどう祈ればいいのか、 よくわからなかったです。 私の祈りかたを、キリスト教でいちばん有名な祈りの 「主の祈り」を例に書いてみます。 主の祈り 主の祈りとはこれです。 「天におら

「み国が来ますように」

「天におられるわたしたちの父よ

 み名が聖とされますように

 ・・・」

の続き。

3つ目の祈りです。

これは、これから起こる神の国=天国や再臨(天変地異的なやつ)を

待ち望むという解釈もありますが、

わたしはもうひとつの祈りの側面を大切に祈っています。

祈りの前提として、

最初の人のアダムとイブは完璧に作られたのに、

「原罪」=要するに、神じゃなくて俺がいちばん正しいから

神は無視して俺が決める、と言って神から離れたことがあって。

神エネルギーで生きてたのに、神から離れたから、

エネルギー不足で人は死んでしまう存在に。

死ぬのが怖いから、自己中心的で、

自分も他人も傷つける不完全な今の人間へと変わります。

でも、2000年前にイエスが、人として完璧に神に従って、

みんなのために死んだので、原罪がゆるされて、

また神とつながって、イエスは死んだあとに生き返ります。

その影響で、人間も死んだあと、

いったん神、イエスのいる所(天国)でしばらく暮らします。

※「現代」はここです。

そして将来、イエスが次に地球に来るタイミングで、

地球も天と同じく完璧な世界になって、

天国にいた人も生き返るという、

これがキリスト教の福音=エヴァンゲリオン。

具象、抽象どう受け取るのかは人それぞれですが、

聖書のストーリーはざっくりそんな感じ。

ここから祈りです。

わたしが祈っている2024年の地球は、愛の国です。

私たちは、自分のせいで、

最後は死んで終わりの世界に生きていました。

何をしても、なにを言っても結局死には勝てない。

でも、イエスが人として生まれてきて、

十字架にかかり、復活してくれました。

人間イエスが死に打ち勝って復活したので、

私たちも復活できる。

だから、2000年前から、死んだら終わりじゃなくて、

最後は生き返る世界になりました。

暗闇の向こうに、光がある。

復活は、神の愛によって与えられたので、

この世を支配しているのは、

死ではなく、愛です。

だから、いまここは、愛が最強で支配している国で、

私はその愛の国の国民です。

今日、愛の国で、イエスが住んでいる都に行き、

王のイエスに会って、隣に座って、そこに住みます。

イエスに愚痴って、慰めてもらい、褒めてもらい、ねぎらってもらいます。

イエスは私のことを大切に思ってくれ、話を聞いてくれます。

私は安心して、イエスを信じ、その言葉を喜んで守ります。

「み心が天におこなわれるように 地にもおこなわれますように」

4つ目の祈り。

主の祈りでわたしが最も大切にしているのは、

ここと、6つ目です。

4つ目、5つ目、6つ目、7つ目の祈りは、

特に連続しています。

ひとつ前の祈りを受けて、次の祈りがある、という感じです。

では、祈りです。

み心は、愛です。

神のこころは人にははかりしれないものです。

私たちは神のこころのほんのいちぶしか、

理解も認識もできませんが、

その人が認識できるいちぶを「愛」と呼んでいる、と思ってます。

神のこころのほんのわずかでもいいから、

愛という言葉でつかもうとしてます。

天は神のこころがすみずみまで満ちているところ。

私が暮らす地では、

愛と対立する「愛ではないもの」の力が強い。

神は、そんな地上で、

神の息が込められた私たち不完全な人間を通じて、

愛をあらわそうとしている。

どうか、今日神の愛をあらわせますように。

そのためにも、イエスは十字架にかかってくれました。

完璧なイエスが背負った十字架は、

本当はわたしが背負うべき私の愛ではないもの、原罪です。

私の持っていた愛ではない古い性質をすべて、

イエスが引き受けて、苦しんで、十字架につけてくれました。

私の愛ではない性質はもう死んで、

私には新しい命が与えられ、

喜びと愛のうちに生きることができるはず。

そのためにも私には、妻や息子が与えられています。

家族を通じて、愛を知ることができます。

妻と息子の話を、受け止めることができますように。

否定するのではなく、喜んで、共感して、寄り添って、驚いて、褒めて、

自分が賛同できないことも、まず受け入れることができますように。

仕事の手を止めて、目を見て、スマホを置いて、話を聞くことができますように。

イライラしたり、大きな声を出したり、恫喝したりしません。

私が、安心できない場所を増やすのでなく、

人が安心できる場所を増やせるように。

今日、神がよろこびにあふれた出会いを備えてくれています。

傷つけられることを恐れたり、自信がなくて不安になったり、

知らない人と会うのがめんどくさいわたしだけど、

神によって出会いはよころびだと知り、感謝します。

(↑この部分で、このような自分の悩み、身近なひとのこと、

 心に重く感じている社会のこと、祈りたいことを祈ります。)

つづき「その3」はこちらです。

あとがき

妻が借りているシェア畑について行きました。

ひと坪もない畑だけど、

里芋とピーナッツが収穫できました。

採りたての里芋ふかしたら美味しいかった!

わたしは土いじりが大の苦手なんで、

妻の畑には近寄りもしなかったのですが、

こないだ友人たちと畑借りたので、

この秋からぼちぼちやるつもりです。

性格的に「労働」っぽくてたのしめないから、

目標はとにかくてきとうにやることです。