3月から月イチハイキングを始めました。
個人的な記録のメモも兼ねて、
行った山を記録していこうと思います。
YAMAPで山を探す
沖縄の山って登れるのかな?と探したら
YouTubeで沖縄の山を歩く
いい感じのチャンネルがありました。
www.youtube.com/@mitikusakurabu
とてもたのしそうです。
沖縄の山はどれも低く、小さくて
森を散歩できるイメージ。
せっかくなのであまり動画は見ず、
初見をたのしめるように、
ヤマップという登山アプリで、
行き当たりばったりで行き先を決めます。

ジャングリアが7月にオープンしたら、
今帰仁村や本部町に渋滞で
近づけなくなるのではと恐れているので、

本部の山にしました。
最初なので駐車場もトイレもあって安心な
嘉津宇岳(かつうだけ)にしました。
嘉津宇岳に登る
車で駐車場に行きます。
Googleマップに「嘉津宇岳登山口駐車場」
があるのでナビでらくらく到着。
許田インターを降りて車で30分くらいでした。
駐車場は無料で広いです。
トイレは汲み取り式?で手洗い場の水も出ません。
小は足せますが、女性には厳しいかも。
トイレは名護のコンビニで済ましたほうが無難。

看板に「非常に険しい地形」と書かれてます。
登ります!

嘉津宇岳、大当たりでした。
森は、自然が豊かで、緑も、空気も濃い。
道行きは森が深いので見晴らしがあまりありません。
生きものに囲まれた散策で、
生命のシャワーを浴びるような充足感があります。

驚いたのは、山が「岩」でできていたこと。
山道が岩だらけで、
特に傾斜のあるところは岩場を登るのような感じで、
足場がとても悪い。
転んだらケガするでしょう。
山としてはとても低いですが、
整備されたハイキングではまったくありません。
スカートで登っていた人や、
赤ちゃん紐をして登っていた人もいましたが、
それは止めたほうが良いと思います。
あと、岩場なので道がわかりにくいです。
以前遭難者が出たときは(救助されてます)、
暗い時間に下山したそうです。
たしかに暗いと進む方向はわからないでしょう。
そして、山頂。
これがすばらしかった!
いい意味で予想を裏切られました。



ちゃんと尖っていて狭い「山頂」でした。
先っぽなので、360°見晴らしがあって、
風が強くて、
めちゃくちゃ気持ちよかった。
晴れていたので森と海と水平線と空に囲まれて、
お弁当を食べて、
最高の大人の遠足です。
気軽に行けるかどうか
沖縄でひとり登山はもしハブに噛まれたら死ぬ?
とビビってましたが、
そんな感じではなかったです。
危険を感じるような場所ではありませんでした。
ゆっくり歩いて休憩もとりましたが、
それでも往復2時間でした。
急な岩場もありますが、
短いので小学生ならなんとかなるでしょう。
気軽にたのしめると思います。
格好は、長そで長ズボンのジャージ、
スニーカー、帽子、軍手にリュックで登りました。
季節によっては虫がいるでしょう。
半そで半ズボンに島ぞうりのような普段着で登るのは
まったくおすすめしません。
登山中にすれ違うひとはほとんど外国人でした。
日本人がひとりで登ってるとけっこう話しかけられて、
旅行気分になれるのもたのしい。
駐車場で車を数えたら、
10台中7台がレンタカーとYナンバーでした。
あまり沖縄のひとが行かない山にも
観光客が来ている。
海だけではなく、山や森も
大切に守り育てたい観光資源です。
あとがき
3月に映画館で『教皇選挙』を観ました。
フランシスコ法皇の人気もあるのでしょうか、
近年コンクラーベや教皇をテーマにした作品は多いです。
教皇選挙も、またかという感じだったので、
サブスクで観るつもりでした。
信頼しているライターのひとが、
情報を遮断してとにかく劇場に行って欲しいと
書いていたので従いましたが、
わたしもその意見に激しく同意します。

アクションもSFもありませんが、
久しぶりに映画館ですばらしい映画体験をしました。
以下はネタバレを含む感想なので、
観た方だけ読んでください。
カトリックが舞台装置のエンタメ映画であり、
宗教映画なのではという心配や期待は不要です。
映画で描かれるテーマは現代的で、
主人公が信仰について、
「確信を持たないことが大切だ」と訴えるシーンがあります。
1977年生まれのわたしの学生時代の主流な思想は、
ポストモダンであり、構築主義、カルスタ、
ポスト構造主義、メディアリテラシーなどでした。
正しいものや絶対的なものはない、
前提を疑い、答えはなく、迷い続けることが善であり、
過程にこそ変化し続ける大切な何かがある。
青年期に浴びたそういう思想は、
良くも悪くも今も私を規定しています。
この映画のラストも含めたストーリーの描き方にも、
そのような思想を感じさせる部分が多く、
自分たちの世代が壮年になり、
社会を作る側になっていることを感じました。
キリスト教の視点で言えば、
この映画を見て、喜ぶクリスチャンと、怒るクリスチャンがいるでしょう。
それはどこにでもある単なる考え方の違いに過ぎません。
私は喜ぶ側ですが、
別に怒る側を否定しようとは思いません。
それほどの振り幅をひとつの宗教として包摂していることが
キリスト教が宗教として存続できている強さだと思います。
ただ、映画では怒る側の思想が差別主義者、悪者として描かれています。
今必要なのはそこを超えることなので、
この映画でキリスト教を語るのは争いを生む悪手だし、
意味がないと思います。