息子に性教育を定期的にしています。
うちの性教育の方法と、実際にしてみて感じたこと。
性教育をしようと思ったきっかけ
子どもが産まれたら性教育を!と思ってました。
きっかけは、自身の性教育を「自力」でやってきて、
遠回りしたなあ、損したなあ、と感じたからです。
うちらの世代はだいたいみんな同じと思うけど、
小学生の頃、近所の空き地や裏山に「エロ本」が捨ててあって、
それを見て「これはなんだろう」という感じで。
第一印象がジメジメしていたわけです。
あとはマンガやドリフなどの影響でしょうか、
小学生は「エロい」「ヘンタイ」を悪口としてはやします。
それで隠すことだと刻まれます。
そこから人を好きになって、付き合ったりしていくうちに、
性というのはなにか大切なものだとわかりはじめ、
自分でいろいろ調べていきました。
おとなになってから振り返って感じたのは、
「性」がジェンダー間の「壁」になっていたということ。
性は、自分と他者をつなげて自由にしてくれる大切なものなのに、
中高生だった自分には、恥ずかしくてよくわからない、
相手との間にある自意識がとらわれる深い溝みたいなものでした。
自分の子どもには、性の第一印象が
明るくて、おおらかで、豊かなものであってほしい、
そう願っていました。
性教育の方法
そんなに特別なことはしてません。
「タイミングを見計らって、絵本を一緒に読むこと」
くらいです。
絵本も、性教育といえばコレ!みたいなオーソドックスなものばかりです。
最初はいっしょに読みます。
いろいろ質問されるので、答えながら丁寧に読みます。
あとは、ほっといたら、たまに自分で読んでます。
「もう1回読んで」と言われることもありますし、
あれってこうなんだよ、みたいに逆に解説されることもあります。
絵本以外には、
親向けの性教育の教室にいくつか参加しました。
ほとんどが子連れで行けるものでした。
親に羞恥心があると、子どもは敏感に察知します。
子どもは「これは聞いちゃいけないんだ」と親に気を使うので、
性に関することが親子間のタブーになってしまいます。
そうならないよう、性教育への理解を深めるのが目的でした。
あとは、息子の普段ふれるものの変化に注意しました。
保育園で女の子との違いを意識しているなあ、とか
好きなのに照れがあって”叩く”みたいな表現になってるな、とか
男友だち同士でわけわからんオトコ意識が出てきているなあ、とか
YouTubeで若干の性的なニュアンスを含んだ動画を見てるなあ、とか。
それを叱ったりからかったり否定はなるべくしないで、
見守りつつただしい知識を与えるようにしました。
それから、性教育は、主にわたしがしていて、妻は見守る感じです。
性教育が苦手だという感覚も、ひとによってはあると思います。
夫婦で意思統一だけはしておき、
実際の話しは得意な方がすればいいのかなと。
実際に性教育をして感じたこと
性教育はまず第一に、子どもの身を守るものだ、ということを知りました。
性教育の教室では、その視点がかならず最初に語られました。
危害をくわえるおとなに対して、子どものちからは弱いです。
だから、大切なもの、プライベートなものが、
自分のからだにあり、嫌なことを嫌だとあらわすこと。
なにが起こってもあなたは悪くはなく、あなたには味方がいること。
性教育は命を伝えることだということがわかりました。
「あかちゃんはどうして産まれるの?」というこどもの質問を、
おとなはすぐにセックスのことだと勘違いしがちです。
そうではなく、両親が出会って、愛し合って、望まれて、
大切にされるために、自分は産まれてきた。
そのために、とうちゃんかあちゃんと、じぶんのからだが
こうなっている、ということをこどもは知りたいわけです。
だから、性教育は、こどもが自分の命と存在が
大切にされていることを知ることでした。
子どもに「あなたが大切だ」と伝える、貴重なチャンスでした。
そして、親のできることは、とても少ないことがわかりました。
きっかけは、わたしの経験への反省からでしたが、
それは、子どもが自分で切り開いていくことです。
親は、子どもに正しい知識を与えます。
子どもは、無駄な遠回りや、余計な雑音を払いのける知識は手にしますが、
それでも結局は、自分でぶつかって、悩んで、成長していくしかありません。
だから、わたしの経験なんて子どもには何の役にも立たず、
子どもの成長するちからを信じて見守ることしかできません。
教育はおおよそそういうものだと思いますが、
それを性教育を通して認識することができたことが、わたしの財産です。