「主の祈り」わたしの祈りかた その1

まいにち朝晩、起きてすぐと寝る前に祈ってます。

でも最初はなにをどう祈ればいいのか、

よくわからなかったです。

私の祈りかたを、キリスト教でいちばん有名な祈りの

「主の祈り」を例に書いてみます。

主の祈り

主の祈りとはこれです。

「天におられるわたしたちの父よ、

 み名が聖とされますように。

 み国が来ますように。

 み心が天におこなわれるように

 地にもおこなわれますように。

 わたしたちの日々のかてをきょうもお与えください。

 わたしたちが負い目をもつ人をゆるすように、

 わたしたちの負い目をおゆるしください。

 わたしたちをこころみにあわせず、悪からお救いください。」

これがキリスト教でいちばん大切な祈りと言われる理由は、

弟子がイエスに、祈りを教えてくださいとリクエストして、

イエスから、こうやって祈ったらいいよー、

と教えてもらったと、聖書に書かれているからです。

私も、この祈りだけでもじゅうぶんというくらい、

すばらしい祈りだと思います。

「天におられるわたしたちの父よ」

始まりの1行、

これは、神に向かって呼びかけています。

天ってどこ?父って誰?は?という感じで、

むずかしい言葉は使ってないけれど、

文書の意味はよくわからないし、

この1行をただ言うだけだと、

言っておしまいになっちゃいます。

この部分のわたしの祈りかたです。

1行だけでも、祈ることは意外とあります。

連想する、あるいは対話するように祈っています。

ウチではむすこがわたしのことを「父ちゃん」と呼びます。

なので、わたしも神に父ちゃんと呼びかけます。

私を母の胎のなかで組み立ててくれたこと。

私にひつようなすべてのものを与えてくれたことを思います。

自分のからだに関すること、じぶんの命、肉体、健康、身体に必要なたべもの、空気、水・・・

生きる場所に関すること、大地、海、風、空、地球、すべての要素、光、風、植物、花、動物・・・

人とのつながりに関すること、両親、姉と親戚、妻、むすこ、社会、友人・・・

心や感情に関すること、愛情、よろこび、たのしみ、言葉・・・

考えることと信仰に関すること、自分が好きなように考えて信じる自由、聖書、救い、永遠を思うこと・・・

きょうも、必要なものがすべて備えられていることに思いを馳せます。

私の霊(たましいみたいなもの)は、わたしのからだに神が吹き込み、

それでわたしは神のかたち(神の性質のようなもの)に似ているので、

わたしは善いものとされていることを思い出します。

わたしが「私」と言うときのわたしは、神に拠るもので、

その意味でわたしは神のいちぶです。

せかいもわたし自身も世界も全部、

じぶんで獲得したものではなく与えられたものです。

めちゃくちゃ与えられてるな、丸儲けだな、と思います。

神は、わたしが生まれる前から今までずっと一緒にいてくれて、

わたしがよろこぶときにともによろこび、

うれしいときにはうれしがり、ともに笑い、

かなしいときにはかなしんで、

傷ついたら傷ついてなみだを流し、

私が歩けないときには背負って歩いてくれました。

私を愛し、まもり、支え、導き、待ち続け、受け止めてくれています。

一緒にいるのは、神の霊が吹き込まれているからなのか、

聖霊をおくってからなのか、ともかくずっといます。

祈っている今もいるし、

朝なら今日これから、夜なら今日いちにち、

いてくれてるな、と思い起こします。

聖書では、ひとは死ぬと天に行ってから復活します。

わたしもいつか必ず死にますが、

神は死ぬときもそばにいてくれて、

死んだあとも一緒にいてくれます。

死んだあとにわたしが行く天とは神のところ、

天とは神そのものです。

父ちゃんから生まれて、父ちゃんのところに帰るわけです。

今のわたしには最初の命が与えられていますが、

もしわたしに2度目の命があるのなら、

最初の命も2度目の命も、同じ存在が与えてくれるでしょう。

その存在が神であり、2度目の命があると信じています。

人間の父と子が誕生するのに先立って、

神が人との関係を「父と子」になぞらえたのは、

誰かの子であるわたしたち全員が、愛されていることを示すためであり、

私達が親になったときの子の愛し方を示すためです。

神はヒゲを生やした白髪のおじいさんではないですし、

そもそも人ではないので、性別もないし、手足もありません。

同時に、神はわたしの父であり、母であり、兄弟であり、友人であり、

わたしの子ですらあります。

その神が、みずからを「親」でも「母」でもなく

父に例えたことに込められた神のみこころは私にはまだわかりません、

その理由がわかりますように。

「み名が聖とされますように」

ふたつ目の祈りです。

み名とは、神の名前、要するに神のことです。

聖とされるの部分、これは別訳の、

「み名をあがめさせたまえ」の方が有名かもしれません。

あがめさせたまえだと、「はは~(土下座)」という感じで

神が偉くて、人がすごく下手(したて)に

出てるような印象を受けるので、

聖とされますようにという訳が好きです。

この部分の私の祈り方です。

あなたの名前、つまり神が神であるということは、

わたしの祈りに拠るのではありません。

わたしがあなたを信じていようがいまいが、

神は神です。

同じように、神は、人間によって神になるのではありません。

キリスト教や、宗教によって神になるのでもありません。

人間がいようがいまいが、宗教があろうがなかろうが、

神は神です。

そうでなければ、神は人間の創作物になってしまいます。

神は人間の文化によって生きたり死んだりしません

人間が神を見出したのではなく、

神が世界を創造したのですから。

神は地球や宇宙ができる前から、

時空がある前から存在していて、

わたしにはそれを理解することすらできません。

それほどまでに、あなたは何にも頼ることなく、かたく建っています。

どこまでも揺るぐことのないあなたを、

安心して信じることができます。

人間のわたしは、どこまでいっても正しく祈ることすらできません。

でも、祈るわたしではなく、祈りを聞いているあなたが正しいので、

わたしは全てをあなたにゆだねて、

間違えていても安心して祈ることができます。

それほどまでに聖であるあなたに感謝しています。

祈りは神とのおしゃべり

まだ最初の2行の部分だけですが、

こんな感じです。

祈りのなかで、

感謝するだけでなく、じぶんの考えを言ったり、

素直にわからないと言ったりもします。

それでぜんぜん問題ないです。

たいせつなのは祈る内容ではなく、

正直に、心をひらいて対話、

ようするにおしゃべりをして、

神の聞こえない言葉に耳を傾けて、

想いを向けることにあるので。

祈りが出てこなければ、

静まって神を思うだけで同じように良いのです。

祈る内容が日々変わり、

対話のなかで変わっていくのがたのしいです。

宗教に関係なく、そういうものではないでしょうか。

あとがき

やっとなつやすみ終わりました。

なつやすみの宿題、

初めて読書感想文がマストだったので、

つきっきりでやりました。

投げ出しそうになるむすこをしかりなだめすかしほめて、

ちょっとずつ1週間くらいかけて書きあげてました。

寝る前の読み聞かせで、

この本『さみしい夜にはペンを持て』を

むすこがとても気に入っていたので、

さみしい夜にはペンを持て
『嫌われる勇気』古賀史健による、13歳から読める「自分との人間関係」を構築できる本。一生自分の頭で考え続けたい人へ。

本にならって(ほんとは日記の話だけれど)、

じぶんの感じたことを文章にしようね、と。

むすこがうんうんバタバタしながら思いを言葉にしているのを見て、

読書感想文がなつやすみのいちばんの

ぼうけんと成長になったと感じました。

えらいぞむすこよ。

自由研究でプログラミングスクールでつくったTシャツ。カービィやっているひとにはわかるマキシマムトマト。笑。